この男、ハーブ・アルパート [音楽]
ハーブ・アルパート Herb Alpert のことは、これまでにバート・バカラックの記事 click や映画「007 カジノロワイヤル」の記事 click で簡単に触れてきました。私は彼のことをメキシコ系だと思っていたのですが、それが誤解だったことを最近になって知ったものですから、改めて彼のことを書いてみます。
学生時代にラジオの深夜放送を聴いていた人にとっては、ハーブ・アルバートの名前は、ニッポン放送「オールナイトニッポン」のテーマ曲、“Bittersweet Samba” click で馴染み深いのではないでしょうか。私はTBSラジオの「パック・イン・ミュージック」を聴いていましたので、「オールナイトニッポン」のことはよく知らないのですが(^_^;
“Bittersweet Samba” は1965年のアルバム Whipped Cream & Other Delights の曲です。このアルバムのトップナンバー、「蜜の味」 “A Taste of Honey” click がシングルカットされて大ヒットし、アルバムも1966年のグラミー賞を獲得します。受賞の年、私はまだ中学一年生でしたが、「蜜の味」が日本でもヒットしてラジオでよく聴いたことを覚えています。
こうして、彼は一躍スターダムに駆け上り、バート・バカラックの新曲を演奏する機会にも恵まれます。それが、「007 カジノロワイヤル」(1967年)のテーマ曲、“Casino Royale Theme” click です。この曲は、ビルボード・ホット100 のイージーリスニングチャートで2週連続第1位を記録しました。
ところで、彼のバンド、ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス Herb Alpert & the Tijuana Brass は、彼のトランペットを中心としたインストゥルメンタルのバンドです。メキシコのマリアッチ風の演奏を得意としていました。そのため、私は彼がメキシコ系だと勘違いしたのですが、実は、彼の両親はユダヤ系移民で、父親の祖国はロシア、母親はルーマニア、彼自身はロスで生まれ育ちました。そんな彼がマリアッチ風の曲を演奏するようになったのは、たまたまメキシコ北部の国境の街ティファナを訪れ、闘牛場で聞いたマリアッチの演奏に触発されたためだそうです。
「007 カジノロワイヤル」の翌年(1968年)、ハーブ・アルパートは、バカラックとハル・デビッド Hal David のコンビによる作品、“This Guy's in Love with You” click をヒットさせます。この作品は彼のソロボーカルの曲で、ティファナ・ブラスも参加していません。歌は素人のアルパートでしたが、シングルリリースされると、ビルボード・ホット100 のポップシングルチャートで4週連続第1位を記録する大ヒットとなりました。
このソロシングルの成功で、ハーブ・アルパートは潮時をつかんだようです。翌1969年、彼はティファナ・ブラスを解散し、ソロアーティストとしての活動を開始しました。
間欠的記憶の泉 1970 [音楽]
お久しぶりです。今回の話題は、シャーリー・バッシー Shirley Bassey 1970年のアルバム Something から、“Yesterday, When I Was Young” click です。
シャーリー・バッシーは、ウェールズ出身の超実力派歌手です。日本では1964年の映画「007 ゴールドフィンガー」のテーマ曲を歌って知名度が上がったのではないかと想像しますが、しかし、私にとってシャーリー・バッシーと言えば、やはり、“Yesterday, When I Was Young” でした。
この曲は、「ゴールドフィンガー」と同じ1964年にシャンソンの大御所シャルル・アズナヴール Charles Aznavour が歌った名曲 “Hier Encore” の英訳版です。原題を直訳すると、「昨日、再び」という意味に。そのとき、シャルル・アズナヴールは40歳。自作の歌詞には、若かりし日々への惜念と後悔の言葉が綴られています。
日本でも、「帰り来ぬ青春」の邦題で人気を博し、多くの歌手が優れた日本語の訳詞でカバーしました。それらを聴くと、とても悲しい歌だということが理解できるのですが、1970年当時、33歳のシャーリー・バッシーの作品は、とても堂々として力強い歌いっぷりだったものですから、高校二年生の私には悲愴感など微塵も感じられませんでした。
ただ、Yesterday, when I was young というフレーズから、懐かしい青春の想い出や美しい人生のひとコマといった郷愁だけをイメージし、いい意味で「人生、感じるな!」という受けとめ方をしていました。かなり楽天的な思い込みでした(^_^;
ちなみに、シャーリー・バッシーは、翌71年に「007 ダイヤモンドは永遠に」、さらに79年、「007 ムーンレイカー」でもテーマ曲を歌います。そして2000年、男性のナイトの称号に相当する大英帝国勲位を受け、今や「デイム・シャーリー・バッシー」(Dame は男性のSir に当たる女性の尊称)と称されるまでにご出世なさいました。
メルシー・シェリー 1966 [音楽]
今回の曲は、ドイツ語です。ドイツ語の歌といえば、やはり、ウド・ユルゲンス Udo Jürgens です。以前、彼が1967年に歌った「別れの朝」 “Was ich dir sagen will” click について書きましたが、今回は、その前年、1966年にヨーロッパで大ヒットした彼の出世作、「メルシー・シェリー」 “Merci Cherie” click のお話です。
「メルシー・シェリー」は、66年のユーロビジョン・ソング・コンテストでグランプリに輝き、シングルレコードが100万枚以上の売り上げを記録しました。ウド・ユルゲンスはオーストリア人ですが、このヒットで、西ドイツ(当時)をはじめとするドイツ語圏の国々にとどまらない広汎な人気を獲得します。
タイトルの「メルシー・シェリー」は、フランス語で「ありがとう、最愛の人」という意味です。しかし、幸せな恋の歌ではなく、「別れの朝」と同様に男と女の悲しい別れを歌っています。ちなみに、フランス語で「シェリー」の正しい表記は chérieですが、レコードジャケットを見ても、歌詞カードの中でも、アクサンテギュのない Cherie となっています。ドイツ語で使わない記号は省略して当然ということなのか、それとも、ドイツ語の中に外来語として Merci Cherie が定着していたのか、………別に、こだわることでもないですね(^_^;)
ところで、ユーロビジョン・ソング・コンテストは、ヨーロッパ諸国のテレビネットワークが参加し、各国から1名(あるいは1グループ)のアーティストがエントリーして、テレビでの生演奏・生中継で争われるコンテストです。衛星放送が普及していなかった当時のことですから、かなり進歩的な国際音楽祭だったわけですが、日本ではあまり関心がもたれなかったと思います。
そのせいか、私はこの「メルシー・シェリー」がウド・ユルゲンスの作品(作詞・作曲も)だとは知りませんでした。そもそも、彼の名前を知ったのは、1967年、「別れの朝」をラジオで聴いたときが最初でしたが、そのころに「メルシー・シェリー」を彼の歌声で聴いたという記憶はありません。
それでも、このメロディはずっと心に残っていました。多分、オーケストラの演奏によるイージーリスニングの名曲として、後にFM東京(当時)の「ジェット・ストリーム」などで聴いたのでしょう。私の記憶に刻まれた「メルシー・シェリー」は、フランク・プールセル Franck Pourcel の作品 click だと思います。ちなみに、そのアルバムジャケットを見ると、「メルシー・シェリー」のタイトルは正しいフランス語表記 “Merci Chérie” になっています(^_^;)
クラシカル・エレガンスのころ [音楽]
“An Old Fashioned Love Song” ──── ある時代遅れのラブソング。これは、アメリカのロックバンド、スリー・ドッグ・ナイト Three Dog Night が1971年の暮れごろに放ったヒット曲です。邦題は、そのまんま、「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」click でした。
スリー・ドッグ・ナイトは当時絶好調のバンドで、何曲もヒットを飛ばし、私はこの曲が好きでした。タイトルの old-fashioned という言葉から懐古趣味的な歌のように受け止められそうですが、歌詞の内容は、ラジオから流れる古いラブソングをBGMにして、彼女と二人で愛の言葉をささやいている、といった感じの幸せムードの歌です。しかし、そんな歌詞の内容とは無関係に、曲がかもし出す一種古典的な雰囲気によって、サイケデリックやピーコック革命などの流行に対するアンチテーゼの音楽のように、私には感じられました。
ピーコック革命というのは、アメリカから起こった男性ファッションの現象ですが、オスのクジャクのように男も色鮮やかな装いをしようというファッション業界の流行です。新宿にあったメンズの三峰などでは、カッターシャツはホワイトよりもカラーシャツが中心アイテムとなり、プリントシャツまで登場しました。アイビールックを中心に質実なアメリカントラッド路線を堅持していたVANなどは、サイケとピーコックにジーンズの流行が相俟って、相当のダメージを受けたのではないでしょうか。
そういう街の流行の中で私の目にとまったのが、新宿通りの紀伊國屋書店のはす向かいにあったJUNのショップです。
1973年ころのことでした。当時、JUNは「クラシカル・エレガンス」というブランドスローガンを標榜し、アイビールックからヨーロッパスタイルへと路線を転換して、VANとの差別化を図っていたようです。
そのときに私が気に入ったJUNのアイテムは、胸ポケットが2つ付いた紺系のシックなカジュアルシャツです。ベルボトムのジーンズによく合いました。クラシカル・エレガンスって、こんな感じ!………高校生のときにはファッションに無関心だった私が、大学生になって初めて見つけた自分のスタイルでした。
スリー・ドッグ・ナイトの「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」には、そういう時代の香りがします。
Black Magic Guitarian 1970 [音楽]
1967年にジェファーソン・エアプレインの「あなただけを」 “Somebody to Love” click が爆発的な大ヒットを記録して以来、ロックの世界はサイケデリック一色に染まったという観がありました。しかし、アートやファッションの世界まで巻き込んで、サイケデリックがどれほど大きなブームになろうと、人はさらに新しいものを求めるものです。
What’s new? という世の期待に応えるかのように登場したのが、以前お話ししたシカゴ click でした。1970年、「長い夜」のヒットで一躍スターダムへ。管楽器中心のブラスロックと呼ばれたサウンドには、強烈なインパクトがありました。
同じころ、シカゴの派手な人気とは対照的に、わりと地味に、しかし無視できない力強さで注目を集めるようになったのが、サンタナ Santana でした。そのきっかけとなったのが、1970年の「ブラック・マジック・ウーマン」 “Black Magic Woman” click のヒットです。と言っても、私には、この曲が日本で大ヒットしたという記憶がありません。何しろ、私の音楽の嗜好は、耳にここちよいポピュラー音楽であれば何でも聴くという無節操な雑食性でしたから(^^;、多分、ロック系ではシカゴの曲に耳を奪われていたのでしょう。
当時の私は、この曲のことを単に「サンタナのブラック・マジック・ウーマン」として知っているだけで、サンタナがバンド名、リーダーがメキシコ系のカルロス・サンタナ Carlos Santana だということも理解していませんでした。シカゴのサウンドがブラスロックと呼ばれたように、サンタナの音楽も新ジャンルのロックとしてラテンロックと呼ばれるようになるのですが、そのラテンのリズムや楽器編成にも気付いていませんでした(^^;
サンタナの音楽は、ロックが大好きで自分でもエレキギターを演奏するマニアックなロックファン好みの曲という印象をもっていました。私にとって、サンタナは「ブラック・マジック・ウーマン」だけの一過性のものに過ぎなかったのですが、周囲にファンがいて余程頻繁に耳にしたのでしょう、サンタナのギターの調べを聴くと、妖しげで危険なものに憧れた当時の気分がよみがえります。
ところで、サンタナ1970年の「ブラック・マジック・ウーマン」には2種類の作品があります。ひとつはアルバム収録の「ブラック・マジック・ウーマン~ジプシー・クィーン」 “Black Magic Woman/Gypsy Queen”、もうひとつはシングルリリースされた “Black Magic Woman” です。アルバムの曲は、2曲をメドレーにしたもので、フィフス・ディメンションの「輝く星座」 “Aquarius/Let the Sunshine In” (1969年)と同じ作り方ですね。
ちなみに、気になるブラック・マジック(黒魔術)については、サンタナのアルバムジャケットに黒人女性が描かれていますので、大西洋航路の奴隷貿易でカリブ海周辺にもたらされたブードゥーの呪術のことのように見えるのですが、ハンガリーのミュージシャンが作曲した “Gypsy Queen” とメドレーにしているところを見ると、ヨーロッパ伝来の黒魔術のことを謳っているように思われます。
悲しみがとまらない 1983 [音楽]
80年代以降の女性ボーカルの作品を代表する曲…と個人的に思っているのが、杏里の1983年のヒット曲、「悲しみがとまらない」 click です。いつものことですが、“これは個人的な感想です”ので悪しからず(^^) それに、日本人歌手の中ではユーミンと竹内まりやは別格だと思っておりますので、この二人以外の曲でひときわ異彩を放った女性ボーカルの作品という意味です(^^;
センチメンタルな詞の内容なのに、I can’t stop the loneliness という英語使いが上手いので、パンチのある曲にきれいに乗って、勢いのある作品に仕上がっています。作曲・編曲も優れていて、それが巧みな作詞を鮮やかに活かしている良い例だと思います。という訳で、この曲がヒットしたのは当然のことと思うのですが、私は他に2つの理由があってこの曲に惹かれました。その理由のひとつは、レコード会社がフォーライフ・レコードだったことです。
フォーライフが小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるの4人によって設立されたレコード会社だということは、フォーク世代の人ならよくご存知だと思います。1975年のことでした。このレーベルと一体不可分のユイ音楽工房という音楽プロダクションもあり、その社名は小室等さんの赤ちゃんの名前(ゆいちゃん)から命名したと聞いていました。学生時代にユイ音楽工房のコンサート会場設営のアルバイトをしたことがあるのですが、そのときの社員スタッフの皆さんが私たち学生アルバイトにとても親切だったことが心に残りました。そんなこともあって、80年代当時、フォークブームが過ぎ去ったとは言え、フォーライフにはがんばってもらいたいという思いがあったのです。
もうひとつ「悲しみがとまらない」に惹かれた理由は、彼女の杏里という名前です。本名ではないそうですが、この名前はフランス語の男性名・アンリ(英語ではヘンリー)から名付けたのではないかと思います。実は、私が全寮制の都立秋川高校で寮に入っていたころ、3年生のとき同室になった同級生にI君という男がいて、彼の名前が安理でした。父親は当時チリの日本大使館に赴任していた外交官で、国際人としてふさわしい名前を子供に付けたいと思って安理と名付けたのだそうです。I君は長髪がよく似合い、カッコ良くて優しい性格の男でした。卒業してからは年賀状のやり取りもしていませんが、彼女の杏里という名前を見たときにI君のことを思い出し、いいネーミングだなと感心した次第です。第一の理由以上に、はなはだ個人的なお話で恐縮です(^^;
間欠的記憶の泉 帆船ロマン [映画]
高校から大学にかけて、私はオールドスパイスの整髪料を使っていました。当時(70年代)の若い世代の間では、整髪料としてヘアリキッドとヘアトニックが定番のアイテムであり、私が使っていたオールドスパイスもリキッドとトニックでした。軽い爽やかな香りが気に入っていました。
そのトレードマークの帆船の絵も好きでした。19世紀に東洋貿易などで活躍したクリッパーというタイプの快速帆船を描いています。スコッチのカティ・サークのラベルもそうですが、こういう構図の帆船の絵を以前はよく見かけました。ワンポイントの小さなイラストでも海のロマンを感じさせるところが好きでした。
しかし、帆船ラベルのオールドスパイスは、もう販売されていません。メーカーのシャルトン社が1990年頃にP&Gに買収され、現在では、P&Gがオールドスパイスのブランドでアフターシェイプやコロンを販売しています。ただし、オールドスパイスの名を残しながらも古典的な帆船のイメージは払拭され、ヨットのイラストに取って代わられました。スポーティで健康的ですが、海のロマンは感じられなくなったという次第です(-_-;
このように、商業デザインの世界では、帆船ロマンはすでに過去のものといった印象を受けます。ところが、映画の世界では、かつては見られなかった本物の帆船、それも18世紀や19世紀のものを精巧に複製したレプリカが登場して驚かされます。そういう映画の代表作が、ラッセル・クロウ Russell Crowe 主演の「マスター・アンド・コマンダー」 “Master and Commander” click です。
この映画は2003年のアメリカ映画ですが、描いているのは、ナポレオン戦争当時のイギリス海軍に実在した小型フリゲート艦サプライズ HMS Surprise の戦いです。フランスの強力な私掠船(武装商船)ア
ケロンを追跡して、ブラジル沖から難所のホーン岬を回って南太平洋に入り、ガラパゴス諸島の海域で奇襲(surprise)をかけて遂に勝利するという粗筋です。
海洋スペクタクルという面白さだけでなく、リアリズムに徹したストーリーや映像作りに感心させられました。もっとも感心したのは、全編に渡って本物の帆船を実写していることです。映画の中でサプライズとして使用された帆船は、アメリカ独立戦争当時に現地へ派遣されたイギリスの小型フリゲート艦ローズ HMS Rose のレプリカで、1970年にカナダで建造され、この映画のために20世紀フォックスが買い取って、サプライズに似せて改装したということです。エンジンを搭載せずにセールだけで帆走する、純然たる帆船です。
かつて帆船ロマンを視覚的に感じさせてくれたのは、絵画やイラストだったと思います。現代では映画がそれに取って代わりました。しかも、リアリズムに徹して往時の情景を限りなくリアルにかつ精細に映像化してくれるのですから、帆船ファンにとってはたまりませんね(^^;
PS HMS Rose のレプリカ帆船は、現在、HMS Surprise の外装のまま、カリフォルニア州のサンディエゴ海事博物館 Maritime Museum of San Diego click の埠頭に係留され公開されています。この博物館は、ちょっと凄いです(^^)
プリンセス プリンセス 再結成! [気になったこと]
東日本大震災の被災者支援のために、「1人では決してできない大きな支援を5人集まれば出来る」として決心したそうです。
私には、多く語るべき言葉がありませんが…、いいですね。とてもいいことだと思います(^^;
ライブ公演や音楽配信などの収益金は、「復興・復旧のために、寄付させていただきます」とのことです。そして同時に、特にプリプリ世代や若い世代の被災者を、熱くさせてくれたら素晴らしいと思います。
詳しくは、Princess Princess official website click をご覧ください。
バート・バカラック伝説の名曲 1962 [音楽]
戦前から1960年代にかけて活躍したアメリカ映画界の巨匠ジョン・フォードの作品に、「リバティ・バランスを射った男」 The Man Who Shot Liberty Valance という西部劇がありました。ジョン・ウェインとジェームズ・スチュアートという性格の違う当時の二大スターが共演したことで注目を集めたそうです。(※邦題の「射った」は「撃った」と読みます。)
この映画は1962年に封切られた古い作品で、しかもモノクロでしたが、確か私が中学生のとき(1966~69年)に淀川長治さんの「日曜洋画劇場」で視た記憶があります。男の友情を描いた印象的な物語だったこともあり、「リバティ・バランスを射った男」という個性的なタイトルをよく覚えていました。そして高校生になり、カントリー&ウェスタンにも関心を持つようになったとき、この映画と同名のタイトルを持つカントリー・ミュージックがあることを知ります。それが、ジーン・ピットニー Gene Pitney の「リバティ・バランスを射った男」 “The Man Who Shot Liberty Valance” click でした。
私は、当時、カントリーではグレン・キャンベル Glen Campbell の洗練された曲が好きでした
ので、この曲は癖の強いこてこてのウェスタンという感じを受けましたが、その個性的なサウンドには惹かれるものがあり、グレン・キャンベルの曲などといっしょにテープに録ってよく聴いたものです。しかし、それがバート・バカラック Burt Bacharach の作品であろうとは夢にも思いませんでした。
そうです、いかにも泥臭い西部劇のテーマといった雰囲気の曲ですが、実は、コンテンポラリーで洗練された名曲をたくさん生み出したバカラックと作詞家ハル・デビッドのゴールデンコンビ初期の作品だったのです。私は、そのことを、「Black Is Black 1966」の記事を書くときに初めて知って驚きました。しかも、この曲が同名映画のテーマ曲ではなかったということも、大変意外なことでした。
実際、アメリカ本国でも、ジーン・ピットニーの歌を同名映画のテーマ曲だと勘違いしている人が多いそうです。しかし、確かにこの曲は映画のテーマ曲として制作されたのですが、ジョン・フォード監督のお気に召さなかったらしく、結局は採用されなかったということです。ところが、ジーン・ピットニーの「リバティ・バランスを射った男」は、映画の封切りに先立ってシングル発売され、ビルボード・ホット100で最高4位というヒットを記録します。テーマ曲にはならなかったが、映画のPRには大いに貢献した、という顛末だったようです。
このとき、ハル・デビッドは40歳を過ぎていましたが、バート・バカラックはまだ33歳、ジーン・ピットニーは弱冠21歳でした。特に若い二人にとって、作品が巨匠に認められなかったことは思いがけない“けつまずき”であり、きっと当惑したことでしょう。しかし、レコードがリリースできたことは幸いでした。それが、やがて一流と認められるひとつの大きなステップになったに違いありません。
PS 次のYouTube作品は、映画「リバティ・バランスを射った男」のトレーラー(予告編)です。
間欠的記憶の泉 1965 [音楽]
ボサノバという言葉から真っ先に連想するのは、リオ……コパカバーナ……太陽……サンバのリズム……水着姿のカリオカたち、といった明るいイメージではないでしょうか。しかし、アストラッド・ジルベルト Astrud Gilberto の場合は、情熱的な歌でも非常にクールに歌うところが魅力的でした。悲しい恋の歌であれば、それが返って内に秘めた想いや哀愁を感じさせて、女性的な魅力で惹きつけられたという感じがします。
そういう静的な雰囲気に満ちた曲の典型が、“Once I Loved” click (邦題・「過ぎし日の恋」)でした。1965年のアルバム “The Astrud Gilberto Album” に収められていた曲です。
ちなみに、1965年には資生堂の大ヒット商品となる「サンオイル(N)」が発売されました。黄色い可愛いボトルが印象的でした。発売初年にはあまり売れなかったようですが、翌1966年のサマーキャンペーンで「資生堂ビューティケイク」シリーズの中心アイテムとなり、前田美波里さんのCMやポスターが大ヒットして以来、「サンオイル(N)」は夏の定番商品となりました。私も、中高生の頃には、あのやさしい香りが好きでした。そして、前田美波里さんのポスターも(^^;
アストラッド・ジルベルトの “Once I Loved” や資生堂サンオイルのことは、1966年、中学生になって初めて知り、私にとっては無性に心ときめく新しい夏のイメージだったと思います。
それらが登場した1965年、もう1曲、ジルベルトが私の大好きな静かな曲をカバーしています。アルバム “The Shadow of Your Smile” に収録されている “Who Can I Turn To? (When Nobody Needs Me)” click という曲です。前年、トニー・ベネット Tony Bennett が先にカバーしてヒットさせたそうですが、私はもちろん、ジルベルトの作品の方が好きです。
この曲は、どちらかと言えば秋冬向きの曲で、中学生の少年が耳を傾けるような作品ではありません。多分、高校生になってから知ったのでしょう。その頃(1970年前後)、ホンダの軽自動車N360が若い世代に大人気だったことをよく記憶しています。しかし、ホンダが四輪の分野でも広く支持されるようになったのは、やはり1965年のことだったと思います。この年、F1グランプリ最終戦のメキシコ・グランプリにおいてホンダ RA272 が初めて優勝を飾り、二輪だけでなく四輪でも存在感を世界に知らしめます。その後、天才レーサーと称賛されたアイルトン・セナが登場し、ホンダエンジンを搭載したF1マシンで独特のホンダサウンドを轟かせ、いわゆるF1ブームを招来させますが、それよりずっと以前のお話です。…………ジルベルト、資生堂サンオイル、そしてホンダのF1。まったく、取り留めのないお話でした(^^;









